4歳から始める中学受験

キッズデュオインターナショナル(Kids Duo International)に関連したあれこれはTwitter(@ganetter365)で呟いています。

もし障害を持った子を育てる立場になったら

皆様こんばんわ

 

今住んでいる地域は「鉄道の街」という推し方をしていて、先日も習い事のついでに寄ったショッピングモールでイベントをやっていました。制服を着て写真を撮ったり、模擬運転席に座ってみたり、クラフトや塗り絵をしたりと一通り楽しんだ後、ビニールプールに溜められているお菓子をお玉ですくって持帰れるコーナーで順番待ちをしていたところ、事は起こりました。

 

ただすくうだけなのにずいぶんと時間かかるんだなーなどと思っていたところ、小学生くらいの男の子が突然、すくったお菓子を周囲にぶちまけ、すぐさま親が制止に入るものの、ビニールプールごとひっくり返そうと鬼の形相でもがいていました。

 

それを泣き喚きながらやっているのであれば、何か気に入らないことでもあったんだろうと思うわけですが、無言で急にやられると、私も子ども達もイベントスタッフの方々も何が起きたのか状況が理解できず茫然としていました。

 

 

いつものように話は大きく変わりまして、私は学生時代、かなり行き当たりばったりな生き方をしてきたと思います。行きたい高校があって努力したのではなく、受験時に合格圏内かつ通学が楽なところを選びました。大学受験も強い志を持って取り組んだわけではなく、滑り止まったところに収まり、結局のところ学生時代に何か成し遂げたことは一切無いと自信を持って言えます。

 

しかし大学を卒業して社会人になった辺りから、そんな適当な性格にそれなりに変化が表れ始め、もちろん仕事においては今まで通りちゃらんぽらんですが、プライベートに関して言えばかなり計画的に、論理的に、慎重に物事を考えるようになりました。

 

その結果、結婚について考える上で慎重に考えすぎる余り、当時付き合っていた現在の妻と、子どもについて、特に「子どもが出来なかったらどうするか」と「妊娠中に子が障害を持っていると分かったらどうするか」を話し合っていました。こういった倫理観を問われる問題は、どんな結論を出そうが反対意見を持つ人を敵に回すので、奥ゆかしき常識人夫婦は考え方を家庭外に出したりはしないでしょう。しかしそういった空気を読むのが当たり前、みたいな風潮が私は嫌いです。

 

 

結局、この2つのテーマどちらも私たち夫婦においては、3人目の段階でもなかなか授からなかったわけでもなく、妊娠中や直後に障害を持っていることが判明したりはせず、杞憂に終わることになりました。

 

しかし妻と議論したことはあくまで「妊娠中に」障害が判明した場合であり、つまりは堕胎の選択をどう考えるかという議論でした。今私たちが考える必要があるとすれば「今後、子が障害や特性を持っていることが判明したらどうするか」ということです。つまりイベントで出会ったような子を育てる立場になったらどうするべきなのかと言うことです。

 

障害や特性を持っているといつ頃判明するのが一般的なのかが分かりませんが、次女はまだ1歳なので今後可能性として十分あることでしょう。そして障害ということを言う言葉を使ってきましたが、現状身体的に障害を持っている様子はないので、今後あるとすれば知的もしくは精神的な部分に限定され、その多くは現代的な表現では特性を持った子と表現するとどこかで見たような気がするのでそれを採用します。

 

まずこの年頃の子に特性が見つかったとき、治療方法や支援制度、保育園や小学校をどうしよう、と考え情報収集に奔走することは目に見えています。

 

治療方法については、医学的根拠に基づく一般的な治療において選択肢はそう多くは存在しないのではないかと思うので、謎のインフルエンサーやオカルト理論に惑わされることなく医師の助言の通りに対応するでしょう。問題はどうやって子育てをしていくのか、ということです。

 

まず一般的な常識や倫理観をおいておき、今回私が見た事柄からまず思ったことは「周囲に理解してもらい、助けてもらおうという発想は危険」ということです。現代社会においてこんな発想は淘汰されるべきで、間違っているのは私だと言うことは重々承知です。が、あれを見た時、直感的にはそう思いました。

 

よくいろいろな場面で「配慮」という言葉が使われると思います。今回のイベントスタッフの方々も最初は立ち尽くしていましたが、状況を察し、彼に対して「大丈夫だよ大丈夫だよ」と声をかけながら散らばったお菓子を集め、ビニールプールを射程外へ移動させていて、最大限に配慮の効いた対応をされていたと思います。

 

ですが、最大限の配慮をしてくれる人々から「仕事だから」という要素を取り除いた時、同じような配慮がなされるとは私は思いません。私は彼を見た時、まず真っ先に自分の子ども達の身の安全を考え、配慮など頭の片隅にもありませんでしたし、仮にも電車内で暴れ狂う人を見た時、人々が取るべき正しい行動は配慮ではなくその場から逃げることです。

 

つまり金銭、対価を生まない配慮など基本的にあり得ないと感じたわけです。イベントスタッフはイベントを穏便に進行させることが仕事で給与を得ていて、役所、教育現場、支援施設等で行われる配慮は税金から支払われる対価無しでは成立しないでしょう。

 

これら支援制度に税金が使われることが問題だとは全く思いませんし、私が利用する立場となれば、最大限利用することは間違いありません。ですが、支援や配慮を受けて目指す生き方が、行きつく先が、特性の無い集団生活が容易に出来る一般的な人々が集まる配慮の無い競争社会だとするのであれば、本当にそれが子どもの為になっているのかかなり疑問です。支援や配慮を前提にした生き方では、それが行き届く範囲内でしか生きていくことが出来ない。

 

一般的な教育を捨てるとどうなってしまうのか想像もつきません。特性の性質や程度問題で一般的な教育を受けて人並み程度に働き出力を出せる可能性も大いにあると思います。けれどこの一般的な支援や配慮を前提にした規定路線を外れることもそんなに悪い選択ではないと思いました。

 

まず既定路線を走ろうとすると、私は税金を投じて行ってくれていると分かっていても、教育環境や支援制度に激しく不満を抱くことになると思います。現行のあらゆる制度はそういった特性を持たない人が考えた制度でしょう。その制度のみが子育て唯一の希望、全ての拠り所に感じてしまうと、些細な事で不満が募るとんでもないストレス環境でおかしくなる気がします。

 

次に、既定路線で子どもが大変な思いをしてこなした義務教育の果てが受験戦争や就職活動であるとすれば、親にとっても子どもにとっても、いつまでも楽になることのない暗闇の中を突き進み続けることになる気がしてなりません。子どもの特性をよく理解した上で、もちろんより一層大変な目に遭うこともあるとは思いますが、リスクを負ってでも既定路線を外れて光を追い続ける方が私は希望を感じます。

 

 

最終的には学歴など関係ありません。藤井聡太七冠は高校中退で中卒扱いになりますが、彼を尊敬しない人などいませんし、彼が仮に義務教育を一切受けていなかったとしても、彼の地位や功績は変わらない。既定路線の教育など受けてこずとも、結果を出せばそれでいいわけです。

 

もちろんこれは極端な例なわけで、そもそも藤井聡太七冠は勉強もかなり出来るようですが、仮に既定路線を外れて出せた結果が「将棋世界最強」ではなく「年収400万円」だったとしても、多くの人がその生き方を認めてくれるでしょうし、自己肯定感も高く生活していけるでしょう。

 

こんなことを一通り考えた結果、もし特性を持った子を育てる立場になったら、支援や配慮の先に希望が見えないと感じた時、どんな手段、どんな方向性であろうと、その子自身がお金を稼いで生計を立てることが出来る状況を作ることに全力を尽くすことが私がやるべきことだろうという結論です。

 

もちろん義務教育課程を経て普通に就職を目指す手助けをすることが最善手でしょう。ですが大変な思いをした果てにたどり着く助けの無い競争社会で、困窮した非正規社員となるくらいなら、最初から好きなことだけをし続けて無職の方が子どもの幸せだろう、くらい楽観的に考え、道を逸れても自立した生計を立てる方法を一緒に探し続けるから安心してくれと言えるように、私はなりたい。